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大峰山は
女性の登山を認めるときです



上の写真は奈良県の大峰山(山上ケ岳)の洞川地区の登山口にある「女人結界門」と「結界石碑」です。他にも三カ所で同様の趣旨の高札をあげています。

 ここから先は女性は排除されます。いまも「女人禁制」を続けています。山登りに男女の差別は不要です。憲法や男女平等論を持ち出すまでもなく、現代の人権意識とかけ離れた方針を大峰山寺は堅く維持しています。

 これを日本の伝統文化とか、聖域が一つくらいあってもいいではないか、という御仁がいます。たまたま差別される側にいないから、暢気なことが言えるのでしょう。

 多くの人が禁制の現実を知らないのですが、実は男性なら誰でも男というだけで、まったく修験道について不信心の者でも登れます。最近では、この事実を黙視できなので、不信心な人の入山はお断りしていますと護寺院側が言っておりますが、具体的にチェックする方策はとられていません。頭の中の問題ですからチェックできるものではありりません。詭弁です。

 ところが、女性の場合なら、大勢の信者がおられますが、どんなに熱心な信者でも、排除されます。ここには信仰心の領域の区別ではなくて、頭から女性を男性と対等としてはみない、排除する差別があります。女性を人間扱いしない、女性の存在そのものを軽視する姿勢がうかがわれます。

 大峰山は「かりに女性差別の意思がなくても、差別を助長するような仕組みや慣行、制度も許されない」とする男女共同参画社会へバランスのとれた対応が望まれます。

 大峰山は、国立公園内にあります。国立公園地域というのは、国民男女共有の財産であり、当然、両性に公開されるべきものです。ユネスコの世界自然遺産の指定範囲に入ります。

 かつて本堂の「昭和の大修理」はほとんど公費でまかなわれました。文化財の保存と維持は、納税者の男女に支えられて今日があるという点からみても、山全体から女性を排除するのは、ムリがあると思われます。

 信仰上の聖地の護持と女性の人権を尊重する施策とは共存できる余地があります。日本各地の信仰の山は、時代の息吹と調和してきました。禁制が人権や差別の意識がなかった時代に形成されたとしても、現在の普遍的な理念に即して、悪しき伝統を改善するのが当然です。

 近年の動向では護寺院側の一部には、開放について前向きの理解がそれなりにあるようですが、信徒や地元に反対の声が根強い。信徒や地元のいいわけは、いつも女性差別ではなくて、伝統的な信仰の問題といいます。なかには「差別」ではなくて「区別」だと詭弁を弄する人もいますが、ならば、区別する必要性についても説明するべきです。

 男性なら不信心でも山に登れるのは、どういう理屈でしょうか。かつて彼らが主張した「大峰山修道院論」は、とうに破綻しております。
ましてや、護持院側が「修験道のどの派の教義、文献にも女人禁制はない」と公表しているにもかかわらず、信徒や地元が固執している奇異なギャップがあります。護持院側の指導力が地に落ちています。


 信仰の名において、近代社会が獲得した基本的人権や平等の権利が無視されていいのでしょうか。修験道各派は、世にはびこる淫祠邪教の類ではありません。なにより、修験道は、明治の初め、国家権力の専横によって「宗教にあらず」と迫害を受けた苦い試練があった宗教です。

 今日、修験道各派が、存在しうるのは、終戦後に受け入れられた法の下での信仰の自由ではあります。自らの存在が、現代の基本的な思潮の恩恵によって尊重されているのにも関わらず、現代の普遍的流れに抗して女性を排除するのは、道理にかなわぬ方針であります。

 平成11年8月には、奈良県在住の女性十数人が登山を強行しました。いつまでも解決を先送りする護寺院側への抗議登山だと理解していますが、大峰山はこのよう行為を「外部からの不当な圧力」ととらえました。開放すれば、これらの圧力に屈したという形になるとしてメンツにこだわりました。

 当事者に問題解決の能力がなければ、外部からの声を真摯に受け止めて推進力とすべきであります。護寺院側は、開祖千三百年大遠忌大法要の年 を経た今日、歴史に残る強い主導権を発揮する事が望まれます。宗教者の責任が非常に重いにもかかわらず、護持院側は先送りしています。

 「伝統」の名において問題の解決を先送りしていては、差別化を放置される女性が救われません。「伝統的戒律」であった飲酒、肉食、妻帯が、いずれもほとんど遵守されない現状にあって、なぜ、女人禁制だけがかたくなに守られる必然性があるでしょうか。だいいち戒律遵守の説得力がありません。

 社会的弱者を踏み台にして、修行の困難さ、深化を謳う手法は、時代錯誤かつ自己中心的であります。そのような誤った宗教的伝統しか持たないのでしょうか。女人の存在が修行の妨げになるという言説があるとしても、女人に責任があるわけでなく、妨げと感じる修行側の心の問題。まさに問題点のすり替えです。妨げを感じたとしたら、その軟弱な心を乗り超えてこその修行ではあり、女人排除の理由にはなりえません。聖地なるものの実態は、その程度ものなのでしょうか。

 人に両性あり。両性の人の心の救済こそが宗教にもっとも期待されている使命ではないでしょうか。それができないのなら、現代の良識に背を向けて禁制を存続する理由を世間に広く説明する責務があります。それが宗教者、宗教法人という公的存在であるものの立場であります。

 この問題について禁制開放をのぞむ側が、寺院側に照会の手紙を出すと、「現在、研究、議論をしているところであります」などという不誠実な回答がいつもあります。伝統の蓄積があるなら、議論の余地がない問題。問題なのは是か非かを決断する良識と勇気にあるように思われます。残念ながら、ことさらに解決を先送りしているとしか受け取れません。

 東日本の修験世界をリードした出羽三山では、出羽三山御開山千四百年祭(平成五年)を機に「女性開放」を断行しております。一部信者による「開放などとんでもない。精神に破綻をきたしたのではないか」などとの誹謗中傷にめげず、禁制開放を断行したとリーダーシップを取った方が述懐しております。禁制が普遍不滅の原理でないことの証であります。出羽三山では、開放後、何ら不都合が生じていないどころか、一層の活気を呈していると聞いています。

 わかりやすい事例で言えば、うちの山歩き好きの家内が元気なうちに登れるようになることを待ち望んでおります。山仲間の女性たちも関心を持っています。開放されれば、大峰山や洞川地区は全国から女性を含む大勢の登山者で活況を呈し、従来とは異なる畏敬と繁栄をもたらすだろうと思われます。富士山も立山も木曾御岳も、早くから開放して何ら山の価値が貶められたことはありません。一歩譲って、山は全面開放、寺内は選択的公開というような段階的なやり方も検討される余地があるように思います。

 女人開放によって修験道の威信が地に墜ちることは、いささかもない。それどころか、ジリ貧と言われる信徒数の衰退から、むしろ再興への大きな転換点となりうると信じています。女人禁制などという旧来の悪弊から脱して、修験道が推進されるべきことは、地球環境悪化が進行しているいま、山の自然と共生する菩薩の心の振興ではありませんか。近年、信徒数の衰微がいちぢるしいといわれるが、修験道の現代的意義は大きいものがあります。修験道各派と関係者の勇断を期待します。





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