三日目


 この日も曇り空。きょうは残波岬というロマンチックな名前の突端を目指したあと、那覇市内へ戻る。時間があれば糸満市内の本島南端、摩文仁の丘までいけるといいと思ってホテルを出発。ホテルの朝は静かで、朝食のあと、キレイな波が寄せる海辺を歩いた。さわやかないい海であった。


 また58号線。この幹線は広くて、判りやすい。恩納村をずっと走る。左手に恩納岳と見られる山。丘陵が続くが、山らしい山はないので、363mの恩納岳でも、ずいぶん立派な山に見える。仲泊というあたりから幹線を外れて、半島状に突き出た残波岬に向かう。すでに読谷村に入っている。沖縄の地名は、米軍軍事基地との関連でニュースになることが多いので、読谷村についても、ここがそうか、といった感じになる。


 そういえば、沖縄の知名人、沖縄出身で活躍する人々の名前が、ほとんど地名と一致していること判って面白かった。ゴルフの宮里、知事の稲嶺、ボクシングの具志堅、野球の与那嶺、歌手の新垣、、、、みんな沖縄の地名である。おそらく名前は、そこに住む場所の地名から派生したのであろうと推察される。


 残波岬は夏場の海水浴場、遊園地、そして白い灯台が立つ断崖。崖っぷちの岩場で何人もの釣り客が竿を出してる。みるからに危なそう。なにしろ、特別お天気が悪いわけでもないのに、時々大波が打ち寄せてザブン、ザブンと砕けている。残波岬は、この光景から名づけられたのかもしれない。

 釣り客のおじさんと会う。「いまは何が釣れるのか」「ウミジョンかな、調子がいいときは二,三十匹釣れるねえ」。これが判らない。ウミジョンと聴こえてけど。魚の名前は方言、ローカルネームが多いので、やむえない。おじさんはバケツを下げていて、釣る気満々である。


 「大波が来てますね」「ありゃ、あぶない。ときたま大波がきて、釣り人がさらわれる。年に何人もいる」という。凄い話である。海岸べりの看板にも遭難事故が絶えないから注意せよとある。命がけの釣りだな。
 別の地元の人にすれ違った際、あの海の向うに見える山はなんですかと問うたら、あれは伊江島塔だという。山のことを塔という。意味わよく分かる。水平線に屹立すように尖っている山である。地図で調べると、わずか132mしかないが、槍ヶ岳のように素晴らしい山容である。塔だとおいうのはムリもない。教えてくれた人は誇らしげだった。

 じゃや、あっちの陸地はなんという島?。実は美ら海水族館がある備瀬岬らしい。つまり名護湾は弓なりに窪んでいるのだ。この美しい名護湾に米軍普天間基地を移転しようという計画を政府が進めている。とんでもない話である。

ぼろい自転車を止めて、妙にむさくるしいおじさんが居る。ちょっとこっちに来いという。近寄ると、荷台の箱のような荷物をあけて、なかから小さな木のようなものをくれた。
なんですか? 
サトウキビよ。
そんな問答のあと、おじさんはサトウキビを一本呉れた。甘いことは甘いが、それほど甘くない。やや水っぽい甘さである。おじさんは、ここで何をしているんですか。
「サトウキビ売りよ」
 あんたらにサトウキビを上げたら、そのへんにる観光客も寄ってくる。なんだろうなと思うから。そしたらサトウキビを売るわけよ。十回やったら、一回くらいは、うまく行くと言って笑っている。それじゃ、こちらは客寄せの餌付けみたいな役割をさせられたことになる。しかし、腹は立たない。どこか間が抜けたような、ただじっと客を待って真っ黒に焼けたおじさんが憎めない。あまりはやっていない証拠に自転車はサビだらけ。中古でも買い手がなさそうな、商売道具だった。

 遊園地の入口に仰ぎみるようなでっかいシ−サーが鎮座している。松の木に向うの浜ではサファーが泳いでいるのが見えた。園地の面白い看板を見た。読谷村の公営の看板だが、
正面切って、犬に呼びかけているところがおかしい。

「犬の皆さん、犬のひとり歩きはいけません。必ず飼い主を随伴しましょう。フンの始末も忘れずに!!」

 次は山歩きの先輩で、沖縄出身の山城さんが推奨される古城見学である。座喜味城跡という。同じ村の分かりづらいところをカーナビに頼りに行く。公園化された小奇麗な駐車場に車を置き、松林の遊歩道を歩く。だらだらの坂道。ゲートボール場や東屋もあり、野生の食わず芋が大きな葉を広げている。静かないい公園である。やがて古城の石塀が見えてくる。正面に回ると、いろいろな形の黒灰色の石を積み上げた石塀がそびえている。堅牢不抜な石城である。

 説明版によると、15世紀、琉球統一を成し遂げた武将、護佐丸が築いた城であるという。石は主に石灰岩とある。見かけの強靭さとは別に扱いやすい石であろうが、どこから集めてきたものだろうか。知らなかったが、2000年に首里城公園などとともに世界遺産に指定されている。沖縄小高い山のうえにあり、当時にすれば田畑、森林の先に東シナ海が望めたであろう。現在は石塀が描く一の郭、二の郭の城壁が残るのみである。入り口は石塀にアーチ状の廊下がある。本土の城のイメージとはだいぶ勝手が違う。ヨーロッパの古城のような雰囲気。


 中はがらんどうで、ニの郭はテニスコート一面くらいの広さ。芝生が青々とあるのみで、建物があったと見られる基壇石が七つ八つが芝に中に並んでいる。まさに落魄した古城の風景である。石塀に上がってみれば、石塀の厚みはニメートルほどあり、多分、歩哨たちが周囲を見守っていたのに違いない。こういう山城で何を食い、何を考え、そして、一体どこから水を供給したのであろうか、そういう想像を駆り立てる。また、この上に三等三角点の標石があった。

 帰途、遊歩道で赤ん坊が寝る乳母車を押す若いアメリカ人夫婦と、そのいずれかのお婆ちゃんに出会う。
「オハヨウございます」
「コンニチハ」
彼らも基地関係者であろう。非番に家族で基地がある土地の公園を散策しているのだ。当たり前の話だが、国家の国防・軍事政策と、そこに協力を強いられる国民の心情とは別である。ひとりひとりのアメリカ人は、フツーの人々であろう。

続いて一気に那覇市内の首里城ヘ向かう。58号線左手はずっと米軍基地である。巨大基地、嘉手納は車で走っても、なかなか途切れない。時折、もの凄い爆音で街中を震わして戦闘機が下降してくる。黒くて先頭が尖った怪物のような機体。四機,五機が相次いで、58号線上を横切り、金網の向うに消えてゆく。噂に聞いていたが、車を走らせながらでも見聞できる現実である。

道路上で数人の男性がカメラを構えて、この戦闘機やヘリコプターの機影を追っている。彼らは単なる飛行機マニヤなのか、なにか狙いがあって飛行を写し撮っているのか、分からない。軍病院という基地もある。ジャージー姿でウォーキングする女性の集団がいる、みんな若い女性である。彼女らも兵士かもしれない。このあたりは、歩けば基地関係の人や施設とぶつかる。

 北谷町、宜野湾、浦添両市を抜けて、ようやく首里城にたどり着く。琉球王国を築いた尚家の根拠地である。地下駐車場に入る。エレベターやエスカレーター、それに休憩所、売店等に繋がる立派な広い駐車場である。おそらく九州・沖縄サミット(2000年)の主舞台になるころに整備されたのだろう。あのよく知られた守礼の門をくぐり首里城跡に入場する。首里城は14世紀末に建造され、なんども焼失しているが、現在のは1992年にほぼ復元されたものといい、いまも塗装などは続けられている。

 琉球色といわれる濃い紅に塗られた建造物、あちことに王を象徴する龍の石像、彫刻。サミットの際、ここの正殿前でサミット参加の首脳陣が記念撮影されたシーンを思い出す。種々の伝統的な文物や部屋を置く南殿は有料800円だった。





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