三日目の続き


 豊見城市内に沖縄戦の砦、旧海軍指令部が残る。小高い丘の地下にアリの巣のように洞窟を掘り巡らせた壕がある。死者たちには痛ましいことであるが、ここまで誤った国策のために狂気になれるものかと、愚かしさを噛み締める軍国ニッポンの負の遺産である。

 駐車場の入ると、目前に沖縄独特の大きな墓所がある。そばに「ハブに注意」の看板。市内の真ん中で周辺は都会的様相が広がっているところで、この看板である。ハブは強い。鉄の暴風雨と呼ばれる沖縄戦の砲弾雨アラレのなかでも生き抜いたのだあろう。                      

 司令部壕パンフレットによると、沖縄戦の全戦没者は20万656人。日本側188、136人、米軍側12,520人である。負傷者の数は掴みきれない。当時の沖縄県民57万人のうち軍関係、民間人ふくめて12万人が死亡している。実に県民四人に一人弱が対象である。

米軍が沖縄の最前線を進攻させて、いわゆる沖縄戦が始まったのは昭和20年3月中旬、そして米軍が沖縄戦線を完全の制圧したのが6月中旬。わずか3ヶ月間にこれほど多数の犠牲者を出している。日本軍は沖縄で米軍を食い止め、本土上陸を阻止する持久作戦を指示した。陸海軍はともに諸島や山間部に要塞を作って籠もり、非戦闘員の一般県民を事実上の軍属として協力させた。

旧海軍司令部壕は、これら非常徴集して県民と兵士が、重機を使わず、いわゆる土方仕事でツルハシやスコップでもって低山の地下奥深くにネズミ穴のような壕を巡らし、作戦本部にした戦跡である。まるで古代の王による使役された奴隷のような作業である。

この壕内に入る前に資料室。自決した太田・沖縄根拠地隊司令官らの帯刀や名刺、さびた医療器具、飯盒炊爨の道具、将官兵士の衣服などが展示されている。失礼ながら遺品の数々の質の悪さ、お粗末さに嘆息する。                                

このような劣悪な態勢で圧倒的物量を誇る米軍と対峙したのか。無闇に精神主義を煽り、ありもしない天佑を期待したのである。開戦初期いらい、いかなる状況になっても休戦、停戦、和平の交渉を一切とらず、ただ徹底抗戦、玉砕を図った。政府と軍部のこの馬鹿みたいな精神構造はいまも日本人の体質にあるような気がする。

なんとも気が重くなる気分で壕内に入る。壁におびただしい千羽鶴。修学旅行などで来た生徒たちが、鎮魂のために持ってきたのであろう。どんどん地中深く坑道を下りてゆく。ざっと30メートルということに驚嘆する。いまは電気がつき、足元は舗装され壁面にも安全の手すりがついているけれど、当時は当然こんな快適?なものではなかったはずだ。現在、公開されているのは延長300メートル。まだ整備されない未公開部分もあるそうだ。

順路に従って、幕僚室、医療室、下士官兵員室、司令官室等。壁土の囲まれて驚くほど狭い空間がそれらに当てられていたと説明されている。狂気が生んだ異常な壕にうんざりして、外に出る。外の光は明るく、空気もうまい。観光バスから下りてきた一団は全員、私服の若いアメリカ人だった。日本人夫婦が一組、ベンチに座ってソフトクリームを舐めていた。

 太田少将がこの壕で幕僚とともに自決、玉砕する前に本土の海軍次官に宛てた電報が資料室でも壕内の壁でも和英両文で公開,掲示されている。戦況が壊滅状態にあること、一木一草焦土と化し、糧食六月一杯を支えるのみ、沖縄県民かく戦へりと報告した長文のものだが、その終わりの一行は胸を撃つ。

   「県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」

この悲願は、満たされることなく、いまも生きていると思う。太田少将は未曾有の災厄をもたらした戦争を顧て、一般県民の今後を気遣っている。このことは悲劇的な壕の唯一の救いである。職務に硬直し、神がかりな職業軍人にあって、多少ともバランスが取れている人物かもしれない。                                 

 明るい日差しを避けて木立の下にいた警備員に糸満市内のある平和祈念公園への時間を尋ねたら、渋滞がないなら4,50分でOKだという。ひめゆりの塔、平和の礎がある摩文仁の丘へドライブすることにした。

 58号線をいつのまにか外れ、331号を行く。ヤシの木、ブーゲンビリヤ、ハイビスカス。街路樹はハワイの風景を思わせる。本島南部は沖縄戦で艦砲射撃などで271万発の砲弾を打ち込まれた場所。山の形が変わり、建物がいっさい消滅するほどの鉄の嵐の洗礼を受けたというが、さきほどのハブといい、動植物はしっかり子孫を承継しているのだ。なんという生命力の逞しさ、感動的でさえある。

 一度、平和祈念公園前に出たが、矢印を間違えて通りすぎるヘマをやった。3キロばかり過ぎて、ミスに気づき、ゲートボールをしているオバチャンに訊いて、Uターン。午後三時を過ぎた祈念公園は観光客のラッシュがピークを越えていて、人影はまばら、静かでいい感じ。想像以上に広大な面積である。あの平和の礎に向けて歩いていたら、樹間から二人のオバチャンが現れた。献花用の花束を売っている。300円。これを持って、戦没者のおびただしい人名が刻銘された石碑の間を進む。

 米軍との死闘が始まった昭和二十年三月から全面降伏調印した同年九月初めまでの間、この戦争で死んだ人々の名前を刻印している。平成18年現在までに判明したのは24万人。こちらの住む市の二倍以上である。その膨大な死に愕然とする。ここでは国籍、性別、人種、敵味方を問わず追悼している。従って、石碑群の端には米軍兵士1万4000人の名前を刻んだ石碑もあった。

 平和祈念公園の名にふさわしく、ここは戦争犠牲者の追悼、恒久平和を祈念するところ。この死屍累々である名前を見詰めると、自ずから無謀な戦争の愚かしさを教訓とし、二度とあってはならないことと受け入れるはずである。平和の礎の横に献花が重ねられている。こちらも、それに倣って花束を置いたが、なぜ常設の献花台がないのか、不思議だった。もし片付けるのが面倒だというなら、横着な話である。平和の礎を建立する意義がある。                

 公園の端にまで行き、太平洋を眺める。ここでも崖に波が砕けて、白波が繰り返し打ち寄せていた。しばらく、いろいろな感慨をこめて海を眺めたあと、車に戻り、今日最後の予定地「ひめゆりの塔」へ向かう。四キロほど先、すぐわかった。大きな無料駐車場。こういうものが無料であることが、沖縄のいいところである。全島観光化という流れのなかでも。本土の名所旧跡地のようにがむしゃらな営利主義が罷り通っていないのがいい。とはいっても、大きな犠牲があった戦跡さえも観光客の物見遊山の対象になることに多少の違和感がある。ハワイでもマレーシアでもヒロシマでも太平洋戦争の負の遺産が観光化されていた。せめて二度と繰り返さぬ教訓を汲み取るという方向になればいいのだが、単に好奇心を満たすだけで、必ずしも反省の礎にならないこともある。                                

 道案内に従って奥まった空き地に入る。塔のようなものがなく、隅にディゴの碑があった。これも沖縄戦で犠牲になった私立昭和高女生たちの碑であるが、参拝者は少ない。近くの食堂から出てきた従業員らしいのオバサンに尋ねると、「ひめゆりの塔」の所在地は一筋先であると指さした。オバサンは不満そうに言う。

「ひめゆりの塔ばっかり人気がある、なんでやろね」

 たしかに、そうである。戦闘に巻き込まれてなくなった児童生徒はいっぱいいるが、戦後、その悲劇をいち早く書物にし、かつ映画化されて国民の同情を集めた「ひめゆり部隊」がもっともよく知られることになった。ほかの犠牲児童生徒がかえりみられないと言うよりも、この一連の悲劇の右代表が「ひめゆり部隊」になったと考えるべきかもしれない。

 「ひめゆりの塔」の石碑は自然石を立てた小さなものである。その傍らの伊原病院第三外科跡と地中の壕を取り囲む場所の方が目立つ。このガマと呼ばれる洞窟の逃れた病院関係者ら100人近くは、陸軍が病院解散命令を出した翌日、米軍のガス攻撃で亡くなったという。

 その前を通って記念館に入る。沖縄戦の陸軍病院詰め看護婦として徴用され、ほぼ全滅した沖縄師範女子部、県立第一高女の女生徒227人が追悼されている展示室が続く。女生徒の幼い写真が並ぶ展示、軍国少女の必勝を期す作文の展示、なんとも切なく重い空気が流れる。かつて映画を見、また本の読んだこともあるが、現実に沖縄にきて、それらを見るのは衝撃である。

 先の壕のなかの海軍司令部で海軍沖縄根拠地の太田少将らが自決したのは、昭和20年6月13日。記録によれば、彼女らを徴用した陸軍は6月18日に彼女らに「解散命令}を出して米軍の猛攻撃下に放り出した。降伏して捕虜になるのは恥辱と叩き込まれていた戦時下、彼女らは丸腰のまま最前線を逃げ惑い,死んで行った。解散命令が出るまでの死者は、19人、逃散してからが100余人という。ひめゆり資料室にあるこの事実の記述には、まったく一般国民の生命や安全に無責任であった日本政府、軍部に対する強い怨念が込められているような気がする。

いまもって戦前の日本に回帰するべしなどと主張する右派言論人や政治家たちは、こういう史実からなにも学んでいない。唯我独尊の皇国史観、愚かな軍国主義の翻弄された少女たちの歴史上類のない悲劇である。

沖縄戦で犠牲になった県民、児童生徒を追悼する祈念塔などは各地にあるが、見るべきほどのものは見た。そんな気持で那覇市内に戻り、右往左往の末、ロワジール那覇ホテルに投宿した。

シャワーを浴びて、夕食を取りに一番の繁華街、國際通りに行く。県内唯一の鉄道「ゆいレール」に乗るため桜橋駅か県庁前駅まで一駅だけ乗ってみた。おしゃれな外観、広い車内。かっこいいモノレールだが、わずか二両連結。駅舎のホームも,そのぶんしか築造していないので、これは大量輸送を始めから計画していない鉄道のようだ。                      

 市街地の真ん中を貫通する鉄道なのに、この容量で通勤通学のラッシュ時が賄えるのか。沖縄は県内の米軍基地化とともにクルマ社会であることを強いられたようだ。

 國際通りの居酒屋でオリオンビールや泡盛、「琉球王朝」をロックで飲んだ。ヤンバルクイナならぬヤンバル鶏の炭火焼、ミミガー添えサラダ、ゴーヤチャンブルなど食べた。ミミガーがトッピングされると、実に食感がいい。再びモノレールに乗ってホテルへ戻った。

  四日目は雨音で目が覚めた。帰る日に雨なら、マア、ラッキーのクチだろう。窓から那覇港に係留された船が見えた。レンタカーを返しに豊見城市内へ。縁石でガイガリやったバンバー下部の接触部分は問題なしだった。というよりも係り員はガソリンが満タンで返却さ

れいるか、車内とトランクが汚れていないかを見ただけで、ろくに車体検査をしなかった。当方から申告する必要がなかった。空港へシャトルバスで行き、のんびりと飛行機を待つ。ピカチュウがデザインされたANA機が駐機していた。ニ泊目のホテルでいっしょになり、騒いでいた修学旅行の東京の高校生たちもロビーでいっしょだった。我が高校生のころは確か九州だったから、いまの修学旅行は遠方まで出かけるもんだと依然騒ぐ連中を眺めていた。                                    


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