源流から河口を訪ねて(1) |
第一回 2008年3月26日(くもり) (近鉄大阪線榛原駅→奈良市藺生町→桜井市小夫→天理市福住町→ 桜井市小夫→長谷寺→近鉄長谷寺駅 歩行距離 約19`) |
くもり空、風のない平日の朝、私たち夫婦は奈良県宇陀市の近鉄榛原駅で山の達人を待ち合わせた。東大阪に住む税理士、Yさん。七十代前半だが、深田久弥選定の「日本百名山」を早い時期に登りきったり、東海自然歩道を完歩、はては世界各地の市民マラソンにも参加している。つい最近では阪奈境の生駒山に三千回登山を果たしている。アウトドア趣味のベテランである。 源流地を探索する酔狂な計画を話したら、意気投合してくれた。心強い援軍である。なにしろ山歩きで鍛えた方向感覚が抜群に優れている人である。それこそ西も東もわからぬ山中に入るかもしれないので、大いに助かる。 われわれ夫婦とYさんは、奈良交通バスに乗り、奈良市藺生町並松で下車した。田んぼのなかを北西に進み、県道38号(桜井・都祁線)に出た。都祁(つげ)の名前があるが、平成の自治体大合併期に、この都祁村は奈良市に吸収合併されて、村の名前は消えている。奈良市の持つ古都のイメージとはかかわりがなさそうに見える田舎町である。 地図を開くと、奈良、天理、桜井市の境界が入り組む行政区域。大和川の源流に繋がる水系は、「はじめに」で述べたように桜井市小夫地区のはずれで二股の流れに分岐。一つは奈良市藺生町高塚地区の丘陵地で地図上から消えている。いま一つは、小夫の分岐点から北進して天理市福住町の方向に青いラインが伸びて行き、国道25号の間近かあたりで、これも消えている。 地図上から消える二つの水系ライン。Yさんと検討した結果、天理市福住町方面へ伸びるラインの方が、地理的にもより長い距離。源流地は河口からの最遠隔地と見るのが妥当と思われるので、福住町方面を目指すことにする。 しかし、藺生町高塚の十字路付近から流れる水利溝が、どこから来ているのか。気になるので、この探査行とは別の後日、調べてみた。水系は飲食店の裏側から東側の田んぼに流れて行く。まったく灌漑用につけられている感じ。藺生峠がある低山の方から滲み出ている水系である。十字路に続く道路を越えて、あるいは潜って藺生町安並方面には流れていなかった。つまり、この水系は初瀬川(大和川)になる支川であった。 さて、桜井・都祁線を道なりに緩い坂道を西南に進む。飲食店の建物などがある大きめの交差点あたりが台地になっており、そこから傾斜がゆっくりの下り坂になる。道端の側溝をふと見ると、水の流れも坂の傾斜どおりに西南方向に向かっている。もう坂道を越えて東側に流れることはない。 「ここらあたりが分水界というわけで、東へ行く水は木津川へ、西へ流れる先は大和川の水になるのと違うかな」 生活排水を流す側溝のような流れは、コンクリで三面張りされた狭い水路だ。ゆるやか丘陵地は、水の流れをわける分水界に間違いないようだ。地図上で消えている旧都祁村の水流ラインは、このあたりと推定できた。 ここの流れはどこへ 細い水路は、桜井・都祁線沿いに歩く。いくつかの鉄工所がある道筋の左右に流れを変えてゆく。幅はせいぜいニメートル。少し離れた田の端で作業中の男性に訊く。 「この流れの名前はなんといますか」 いや、とくにないな。あるかも知れんが、言うたことないな」 「いずれは大和川につながるんでしょうかね」 「そうや、初瀬川になったあとは大和川や」 やはり、この流れがゆくゆくは大和川に成長することを地元の人も承知している。それが確認できた。たまにトラックが疾走するが、歩いている人は皆無だ。なぜか鉄工所の建物が目立つ。田はまだ冬枯れの気配が濃く残り、周囲は色あせた白茶けた風景、野の花を見ることもない。 約五十分歩いて、桜井市小夫地区の川の分岐点(写真左)に着く。付近は標高四九○メートルだ。ずっと高原状態だから、あまり起伏を感じないで来た。旧都祁村から流れてきた水系と福住町の方へ進む水系、二つの水流がV字型に田んぼのなかで合流している。二つの流れはともに幅は二メートルに満たない。まだいっぱしの川といえない。農業用の水路くらいな印象。川とすれば、小川としかいいようがない。周囲は一面の冬田である。探す気持ちがないと、見過ごすような合流点である。 そばの桜井・都祁線から林道のような道が派生して、福住町方面の山中に伸びている。車一台なら走れるが、対向車との離合はむずかしいような道幅。しかし、ずっと前方に高圧線の鉄塔がある。鉄塔が建設されたほどだから、道はしっかりしているはずである。工事用車両に出入りしたのだから。 道の右側に十字架型の手作りの標識が立つ。「のんびりふぁーむ」(写真下)と書かれてある。仮設小屋とトイレが置いてあり、ベンチがいくつか並ぶ休息所のような一角がある。誰もいなくて寂しい場所だが、初夏になれば、山草摘みの人が立ち寄る憩いの場所になるのだろうか。 道は北進する水系とつかず離れずだ。山道にさしかかると、水系の幅は、簡単にまたげるほど狭いところもある。水深も十センチ足らず、雑草や小石のなかを行く。かと思ったら、まだ浅いが、小川らしく広がる。高圧線の鉄塔付近では道筋から遠く離れてしまう。背の高い雑草や竹林の向うに消えて見えなくなる。 この道はいたるところで水たまりがあり、泥砂のぬかるみ状態。足場を探して歩かなければならない。ひどい悪路だ。二十分も歩いた地点で、急に視界が開けた。台地状の広がりがあり、昨秋に稲刈が終わったあと、冬を過ごしてきたままという印象の田が何枚も広がる。 田と田の間に水が伝う水路(写真下)がある。灌漑用水路というもので、それがわれわれがたどっている小川に注いでいる。いくつものの水利が低い水音をたてて注いでいる。これは小川の支流である。小川といえども、一つだけ限定された水源ではなくて、あちこちから滲出した水を集めている。厳密にいえば、小川の支川のあちこちごとに源流地があるということになろう。そう考えると、大和川水系には一本の幹川に百七十八本の支川が注ぎ、さらにその支川に膨大な数の二次支川、、三次支川というべき 水の生まれるところがあることになり、とうてい、探しつくせるものでない。どこそこを唯一の源流地と特定するのは、非常に困難であることがわかった。 山の場合、ふつう登山口やコースがいくつもあるが、頂上と呼べる地点は一箇所しかない。標高のもっとも高い場所が頂上である。科学がそれを立証してくれる。人は汗をかき、足腰に苦痛を感じ、腹をすかして苦労したあげく、山頂に立つことに無上の喜びや楽しみを得る。山頂はゴールである。 ところが、河川の場合、唯一の源流地を科学が立証してくれる仕組みになっていない。いくつかの状況証拠でもって推理して、自分で実証してみなければならない。水がにじみ出るところ、湧き出すところ、噴出すところは無限にあるだろう。雨や雪は地域を選ばずに降る。それらが大地の低い場所を求めて流れだすところは、無数にあるにちがいない。 源流地と特定するための状況とは、やはり河口から最も遠く、分水界になるところ、分水界でない場合、それ以上高い位置に水源が求められない行き止まりのところ、年間を通じて水の湧出があるところなどが条件になるかな。 さて、目の前に展開する田を区切る縁は、言い合わせたようにトタン板で仕切られている。数十センチの高さの板が横並びして田を包囲している。なかには旗幟のようにビニールが翻っているものもある。これはイノシシ排除の柵であり、イノシシ威嚇のノボリである。 こんな厳重に防護しなければならないほどイノシシが跳梁跋扈しているのだ。ここまで来ても最初に川の名を尋ねた作業の男性のほかに誰とも出会っていない。一軒の民家もない。無人の山野でイノシシが米作農家の敵役を演じている。イノシシ害がこんなに大変だとは驚かされる。 小川の流れが場所によっては道から外れる。樹木が邪魔して視野がさえぎられる。常に川のそばにいるというのは、むずかしいものだ。やがて完全に流れは灌漑用水路化した(写真左上)。幅一メートルくらい。三面ともコンクリで塗り固められている。水浅わずか数センチの水流。田んぼと農道のようになった道の間を排水溝のように流れる。 前方左側の高台に場違いなピンク色の大きな建物が現れた(写真右)。四階建てくらいのビルである。Yさんと話す。 「あれが地図にある老人ホームじゃないですか」 老人ホームの地図記号は「家のなかに杖」の図である。この地図記号が国道25号線の前にあり、一方、われわれがたどってきた水系は、この建物の北側のイノシシ排除板に囲まれた田んぼのなかで消滅しているのである。まるで毛糸の先っぽがちぎられて捨てられたように青い極細の実線が消えているのである。 「ここらで、水系は地図上ではなくなっている」 われわれはYさんを先頭に「やすらぎ園」の建物の下の土手に沿って歩く。擁壁の厚さ十センチほどの壁の上をバランスを取って歩く。すぐに水路は直径一メートル以上ある大きめの土管に行き当たる。土管のなかは真っ暗、暗渠である。どうやら「やすらぎ園」の正面に通じる進入路の地中を潜り、さらに二車線の国道25号線の下を抜けている。距離にして八十メートルくらいだ。いわばトンネルを大和川の水は流れているわけだが、後にも先にも水系が地中を抜けるのは、ここだけであった。 われわれは土手を上り、も国道を越えて、ガードレールの切れ目から再び田んぼがある狭い山あいのなかに降り立つ。このあたり標高四九二メートルである。右手に軽四輪が走れる程度の山道。田んぼのなかの流れは人工的な水路の姿でなくなった。草むらにつつまれた小川の様相となって、北西方向の低い山陰に伸びている(写真左)。ここに鍬を持って畦をならしている農夫がいた。 「お仕事中、もうしわけありませんが、この水の流れに名前がついてますか」 そうだ。やはり、こんな細い水流でも、ちゃんと大和川につながっていることを、地元の人は認識しているのだ。 「この先に水が流れ出す源流地がありますか。水の流れる方向が山を越えてゆくところがありますか」 源流地は植林帯のなかに 狭い田んぼは山に向かって、何枚も重なりあっていて、ゆるやかな棚田状になっている。水の流れは田んぼと雑木林の間を曲がりくねって続いている。(写真右)水の量は少ないが、澄んでいる。底土が見える。畦伝いにゆるやかな斜面を行く。ここらあたりの水は棚田にうまく配分されていることが歴然である。 この山間部の棚田も完全にトタン板で包囲されている。ところによっては弱い電気が流れる配線が柵を繋いでいる。イノシシ除けである。人の気配はぜんぜんない。昼近くで日射しが温かくなっている。冬場は積雪で、田も畦も区別がつかいない銀世界になるところだろう。 田んぼわきの小さな流れを確認して、いったん山道に上がり、数十メートル進んで雑木の切れた場所から田んぼを見ると、少し先で田んぼが終わり、トタン板が柵になって行き止まりになっている。トタン板の向うはヒノキの林である。低山の中腹の斜面である。 「どうやら、あそこが終点ですね」 「いよいよ水源かな」 藺生町並松でバスを降りてから二時間経った。山間を歩いてきたものの、さっきトラックが走る国道25号を横断してきたくらいであるから、いささか拍子抜けである。人の暮らしが及ぶ棚田と植林がある、こんなところに大和川の源流地があるのか。それこそ鹿や猿が啼く深山幽谷、大滝小滝があるような人跡まれな暗い樹林のある深奥部を想像していたから、意外な感じである。もっとも意外と感じるのは、こちらの勝手な夢想のせいではあるけれど、それにしても危険なアドベンチャーになるとか、湧き水の泉の発見というのはロマンがあるとか、勝手に思い巡らせていたので、意外であった。 再び田んぼの畦に降りて稲の切り株をみつつ、行き止まりのトタン板まで歩く。水の流れは幅四十センチ、水深というほどの水量がない。ちょろちょろと雑草の根元を流れている。澄んだ水である。Yさんと家内を残し、一人でトタン板の柵を越えさせてもらい、ヒノキ林に入る。ものの数メートルも歩かないうちに水源と見られるところに到達した。(写真上下) そこは幅四十センチ、ややえぐれた溝状の一点。ちいさな水溜りがあり、底に枯れ葉が沈んでいる。きれいな水がそこに留まっている。伏流水が湧出してたまったのか。その先にある溝は、塗り固めた泥が乾いた状態になって、水は完全になかった。干上がっている。溝状になっているのは、地元の農林業で働く人が水を流れやすくするため鍬でならしたような形状だった。周囲はまだ幹は細い若いヒノキの植林帯。林業者が枝払いなどするハシゴがヒノキの幹に立てかけられたままであった。ということは、ここはぜんぜん未踏の地ではなくて、ふだんに農林業者が立ち入っているような場所である。 「ここが、源流地か」 なんにもない。せめて「大和川之源流地」なんて標識でもあれば、楽しい気分になれたかもしれない。植林帯の冷ややかな空気、しーんとした静けさのなかで、そんなことを思った。 世界の大河、アマゾン川や黄河やインダス川にも、こうしたなんの変哲もなく、さりげない水の発生地があるのだろうか。こうしたわかりやすい川の始まりを見ると、大きな生命体は小さな細胞から生まれる。大河も最初の一滴から始まる。そういう仕掛けを実感できる。 川は古来、歴史の流れや人生と重ね合わせられる。たとえば、鴨長明の『方丈記』の冒頭の言葉を思い出す。高校の国語の教師が名調子で読んでいたものだ。 「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、本の水にあらず。淀みに浮かぶうたかたはかつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし」、、、。古代の人が住むようになってからの地形の変動なんか、大したことがないはずなので、ここの地形を縄文人も万葉人も見たかもしれない。時代や歴史を超えて、もとの水にあらずの始まりである。歌謡曲の世界でも。川の流れは人生に譬えられる。あの美空ひばりは『川の流れのように』を、こんな詞で歌っていた。「知らず知らず歩いてきた細く長いこの道 ふり返れば遥か遠く、、、、」。ここでも、川の流れに託して自分の人生を顧みる感懐が込められている。 Yさんに同行していただいたお礼を言って、畦を引き返す。大和川河川事務所の係官が示唆していた都祁高原にある源流地がここだ、という証明を誰からも保証されたわけではないが、水系の行き止まりを実際に見た者としては、ここに間違いないと確信した。気分よく、畦を歩いて山道に戻った。 あとでインターネットで公開されている国土地理院の地図閲覧サービスや「電子国土ポータル」のサイトを検索した結果、この植林のある山の北東側は天理市長滝町、西南側は同市苣原町であり、民間会社が所有している高岳(五五九・八メートル)とわかった。上部に三等三角点(所在地は同市苣原字高嵩1271番地)がある。(写真右) 源流地があるあたりは、緯度経度はどうか。国土地理院による但し書き「平成14年4月1日施行の測量法改正による世界測地系に基づく値。この計測の精度は保証できませんので、これらの測定値はあくまで参考の値としてご利用ください」を前提に推定すると、 北緯34度35分44秒 東経135度53分59秒 と考えられた。 水系をたどり初瀬川沿いへ 「やすらぎ園」に向かいあう国道25号線の土手でお昼にした。ガスコンロで湯をわかし、家内がラーメンをつくり、おにぎりを食べる。思ったよりも早く危なげなく源流地を見つけられたので、心は弾む。 そうなのだ。たくさんある支流(支川)のなかでも初瀬川は、大和川の直接の上流域とされている。国交省作成の地図にも二つの川名は並列されて記入されている。 山道に入る前にゴルフボールが転がっているのを見つけた。このあたりの山間には天理GCとか春日台CCとかのゴルフ場があるのだ。 分岐に戻った。桜井・都祁線を南進する。Yさんは山で鍛えた脚力で、すたすた歩く。後を追って、右側の田んぼのなかをゆく川の流れを見落とさないように歩く。昨年秋に繁茂したはずのすすきが川岸に枯れて立っている。藺生町の方からの流れと合流して一本になった水流は、はやくも幅三メートルくらいの川らしい川の様相を見せ始めている。川底の石や段差のせいで、水が白くはじけ輝いている。ほうっ、川らしくなった、と思う。 やや道から離れたあと、こんどは38号線にぐっと近づいて、道路の下を潜ってゆく。小さな橋になる(写真左と下)。まだ新しい感じの橋である。Yさんが叫んだ。 橋の欄干の反対側の端には「ダランデン北橋」と橋名の金属板がある。ダランデンとはなにか意味不明だが、橋の名前だから、このあたりの地名に拠っているのだろうか。それにしても意味不明の橋名であるが、大和川の名を見つけたのはうれしい。この表示がここにあるのだから、さきほどの分岐点あたりから初瀬川イコール大和川という認識が当局にあるにちがいない。 「ダランデン」とは、後に土地の人に尋ねたところ、大字小夫に続く「小字」名であることがわかった。アテ字もなく、カタカナ表記しているという。 起点の笛吹橋は小さい橋
川の流れは生き物のように左側から右にうねる。川の底が深くなり、崖に沿っている。笠置山地というのは、北は春日断層、南は初瀬川、宇陀川断層とあるので、このあたりから一段と地面が低くへこむ。渓谷のような風景が現れてきた。川は崖下を流れる。道路わきから下を見ると、川幅は四メートルくらいに広がり、大小の岩を縫っている。清流の趣きである。 道端に二段重ねの大岩(写真右下)が鎮座してあり、上の岩の正面に「猿田彦之命」と彫られ、白い御幣が岩頭に巻かれている。猿田彦之命というのは、鼻の長い天狗の原型みたいな怪異な顔した神様。天孫降臨の神話に登場するとされ、各地に猿田彦を祀る神社があるという。いまでは道祖神のように役割と理解されている。そんな神様が野面に孤立したように鎮座している。いよいよ歴史の闇につつまれる古代ゆかりの隠口(こもりく・隠国とも)の里に入ってきた感じである。 すぐに笛吹橋に着く。拡幅された38号線と旧道とを繋ぐ小橋。幅二車線、長さ数メートル、アスファルト舗装橋である。橋名は書かれていないが、ここが国が認定している大和川の起点。流れが速い。浅い水面が真下に見える。 しかし、正面の山すそに「笛吹大明神」の五輪塔。そばに「笛吹奥宮笠神の聖地 天照らす神の隠れる戸をあけて 日の出にかえす笛吹の神」と刻まれた石碑がある。ここで湧き水をポリタンクに入れている男性の話では、飯炊きにもコーヒーにも美味しい水なので、時々汲みにくるとのことだが、橋の名前は知らないと。通りかかった軽四輪のおじさんに訊くと、新道ができるまでは橋のたもとに「大和川 笛吹橋」と看板があったという。 このあたりの川幅は数メートル。川床は大小の岩がゴロゴロしているが、両側は完全に擁壁で護岸されている。上下の写真でいえば、右手が旧道である。どうもこ小夫地区というのは、猿田彦の先導でやってきた天照皇大神へ笛の音にあわせて神楽を献納したとか、笛吹橋のまたの名は天の磐橋とか、なにかと神話の世界を伝承している。小高い斜面にある小夫天神社の縁起にも、大来皇女の泊瀬斎宮のことが伝えられている。神話や古代にまつわる故事来歴好きの人にはこたえられないような伝説に満ちた土地柄なのである。 いまは見過ごしてしまいそうな笛吹橋が、けっこうな由緒に富んでいるのであれば、大和川の起点にふさわしいかもしれない。県道の左右はどちらも深い森である。空は道幅の上にしかない。橋のそばにも、そのあとの集落を抜けても、ぜんぜん歩く人に出会えない。郵便局もひっそりしている。藺生町いらいの集落だが、過疎化の波にさらされている感じだ。 歩車道の区別はないゆるやかな坂道。蛇行しつつ、どんどん下っている。初瀬川の流れはずっと左側にある。左岸側はこんもりした森。そこから初めてやや水量の多いはっきりした支川が流れ込む。芹井川である。川らしい川が流入したのは初めてである。しだいに桜井・都祁線の脇の断層が深くあって川の水面が遠く離れる。たまに覗き込むと、川は水しぶきをあげて岩の間を縫う渓流の風情に変わっていた。 中年のおばさんが、道端にしゃがんで何かを摘んでいる。訊けば、ヨモギを摘んでいるのだという。 まほろば湖に到着
鳥見山方面からの萱森川がダムに流入しているとはいえ、あの源流地を出発した最初の一滴が、豊かな青いダムの水面と一体化しているのだと思うと、感慨深いものがある。自販機で買ったコーヒーを飲みながら、Yさんとともに湖畔で休む。東海自然歩道は、ここを通過して東進している。 湖面を風が渡ると、小さな無数のさざなみが起きている。のんびりしたハイキングを日和だった。当初の計画では、源流地の探索には相当時間を要するだろうから、近鉄長谷寺駅から往復するルートを思案したが、Yさんが藺生町へのバス便を見つけてくれたのだ。 「長谷寺へ一・七キロ」の標識をみて下ってゆく。すぐにダムの放水路を仰ぎ見る。高さ五十五メートルの堰堤の中央部から一定の水流がほとばしり落ちている(写真左)。これを見ると、大和川が完全に人工管理された水系だとわかる。仮定の話であるが、ここで放水量をシャッタウトするとすれば、初瀬川の流れは途絶える。言い換えれば、大和川はここで水系を断つのだ。 ダムの背後は「与喜山暖帯林」と地図にある。国の天然記念物に指定されている常緑の原生林らしい。河川敷に長谷寺温泉の看板。どうみても営業中とは見えない寂れたたたずまいであった。名刹、長谷寺近くになると、川幅は四メートルくらい、水かさは少ないが、きれいな水流。朱塗りの小橋がかかり、門前町にふさわしい景観である。 泊瀬川流るる水脈(みお)の瀬を早みゐで越す波の音の清けく (万葉集七巻、作者不詳) 鮮やかな参急橋の欄干から上流の川筋(写真左)をみる。日当たりがいい川畔で桜が一本、満開近い花を咲かせていた。源流地からこの付近まで水はきれいに澄んでいた。今回の探査行はここまでにする。午後四時すぎ、近鉄大阪線長谷寺駅に着いた。歩きは約七時間だった。 |
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第三回 へ続く 2008年5月6日 |
第四回 へ続く 2008年6月7日 |
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