源流から河口を訪ねて(3)                                                            


   第三回   2008年5月6日(晴れ)

(近鉄橿原線結崎駅→奈良県立浄化センター→安堵町・西名阪自動車道

→河合町・御幸大橋→関西本線→三郷町・亀の瀬→大阪府柏原市・

国豊橋→柏原市役所→中甚兵衛立像→近鉄道明寺線柏原南口駅 

歩行距離約20`)                            


大和川の管轄標識

初夏。さわやかな風と光の朝、近鉄橿原線結崎駅でYさんと会い、前回歩き止めにした帰仁橋近くに戻り、川筋歩きを再開する。

雑草が濃くなった堤防、ゆっくりした流れ。例によって水量が少ないので、川床の土の色が水に映って、川筋は茶色だ。お世辞にもきれいな川に見えない。しかし、そのことは透明度があるということかもしれない。                                                  

すぐに右岸に合流する布留川北流とと出合う。出会い頭の先端に小さな公園があり、あずまやの屋根になぜかイルミネーションが飾ってある。夜間は光るのだろうか。川岸を妙に飾っても、淀んだ水面には新聞紙や空き缶、ペットボトルが浮いていて鼻白む。                                

堤防に濃い紫の花がいっぱい咲いている。カラシ菜の黄色ととに堤防の風景を二分している。                                               

「紫の花はカラスノエンドウ。もうマメがこんな大きくなっている」と家内。細いさやができているのだ。                                

自転車に乗った長靴のおじいさんがやってきた。いつものように恐縮しつつ呼び止めて、川名の確認をしてみた。                        

「このあたりでは、この川はなんと言ってるんですか」

おじさんはちょっと思案して言った。                                                                 

「初瀬川じゃ」

「大和川とは言わんのですか」                                              

「大和川はもちょっと先の、あっちの合流するところからやろう。えーと、センターのあるあたりからや。それはそうと、どこへ行くんか」                       

「川沿いに大阪湾まで行くつもりです」

「歩いてか」

おじいさんは心底驚いている。自転車から降りて、気つけて行きやと言ってくれた。私たちの歩きは、おじいさんの常識を超える予想外のとっぴな行動に受け取られたようだった。

おじいさんが指摘した合流点というのは、地図上でみると、奈良県浄化センターの右岸から合流する佐保川といっしょになるところをさしている。

しばらく右岸歩きをしたあと、次の橋で左岸に変える。近鉄橿原線の軌道を越す。軌道わきにこの先の対岸にファミリー公園駅があるとの表示がある。野球場やプールがあるらしい。対岸の樹木の茂みの向うに奈良県浄化センターの白い建物が近づいてきた。 

ここで初めて堤防上に「河川管理境界」の看板を見た。駅のホームにある駅名標識のような大きさである。看板の中央に赤い色のT字型の囲みがあり、その左側に「大和川、国土交通省、大和川河川管理事務所」。右側に「初瀬川、奈良県、桜井土木事務所」とある。対岸の堤防にも同じ看板が立つ。そうか、この地点から川の名は正式に大和川になり、管理団体が国と奈良県に分かれるわけだ。

水辺で男性三人が魚釣りの準備をしている。堰から落下した水が浅瀬になっている場所だ。堤防に京都ナンバーの車が二台。よほど魚釣りが好きなのだ。朝早くから遠出してきている。

「なにが釣れるのですか」

「コイや」     

「コイですか、食べるんですか」

「いや、食べない」       

この釣り愛好者もキャッチ・アンド・リリースを楽しんでいる。彼らの背後の水面を堤防上から見下ろしたら、なんとゆっくりと泳ぐコイがたくさんいるではないか。川床の土色よりのもっと濃いブラウンの魚体がくねったりしている。鯉の口が黄色いのまで見えているではないか。            

あとあとの下流域もそうだったが、この川にはコイがいたるところで見受けられた。場所によっては、ずいぶん汚濁が激しく、水が泡立つような川岸や排水溝が流入する地点でも泳いでいた。コイは必ずしもキレイな水質にこだわらない魚なのかもしれない。

「アツ、キジや」と家内が叫ぶ。

大柄なオスのキジが左岸から浄化センターの緑の茂みを目指して、川を越えて飛ぶ。ぐらりと大きな羽が揺れて、雑草のなかに消えた。キジが居るのは、平坦部が広い大和国中に豊かな自然と餌になる食べ物がある印である。


河口までの距離標

そんなことを話して歩いていると、堤防の草むらの一角に見なれぬ小さな六角形の標石をみた。高さ五十センチくらいで、「大和川距離標、河口から36.0km」と刻まれている。20022月に設置された新しいものである。こんな「距離標」とは初対面である。これまでにも設置されていたのかもしれないが、気づいたのはここが初めてだ。   

大阪湾まで「36`」か。市民マラソンの愛好者でもあるYさんは、「ゆっくり走っても、昼すぎに着いてしまう」と言う。桜井市小夫の笛吹橋から河口まで「68`」と聞いていたので、ここまででほぼ半分は歩いたことになる。

このあと距離標石は頻繁に現れた。対岸にも設置して相対して一対になっているようだが、なかにはわずか二百メートルの間隔で建立されているところもある。これほどの至近距離に設置する意味がわからない。川筋歩きには、これを見つけるのが楽しみとなった。

浄化センターは遠めには遊園地か、お城のような高い建物。川の水が汚れないように、文字通り浄化している大掛かりな装置があるらしい。あとでセンターのホームページを調べると、流域の七市八町、およそ百万人の人々の水処理のため、昭和四十九年に操業開始とある。確か昭和四十五年が大和川の水質検査結果がもっとも悪かったと聞いているので、その対策として講じられたものだろう。

県道106号線にかかる板屋ケ瀬橋上から見ると、大和川と浄化センターの放水路と、さらに左手から合流してくる佐保川が一望できる。三つの流れが合流したせいか、この橋を過ぎて大和川が一段と雄雄しく川幅が広くなった。

まもなく左から合流する寺川がある。遠回りになるので右岸に渡る。川の真ん中でゴムズボンをはいた若い男性が竿を振り回している。確かに、これほどの大川なのに水かさが少ない。野球帽の男性の膝くらいまでしかない。浅いのだ。大和川は総じて水量が少ないなりにこのあたりから先は大きくゆるやかに蛇行する。

堤防沿いの水面の両側に三筋のコンクリ塊の列。サイコロのような四角い石が並んでいる。長い三条の飛び石のような行列が、川にどのような効用を生み出しているのか見当がつかない。流れのスピードを弱めるためか、魚の棲み家にするのか。

実は、ここに限らず、あちこちの堤防脇や川床にこのような仕掛けを見た。あとになって国交省大和川河川事務所発行の資料を見たり、説明を受けるまで、これらの仕掛けは、たぶん治水のための工夫にちがいないと思っていた。その点では当たらずとも遠からずなのだが、具体的な効果は予測できなかった。

場所によっては、たとえば、川幅の全面に大小の石が数十列にも敷き詰められている。そこは瀬のように水が白く跳ねている。これも素人にはちんぷんかんぷんの仕掛けなのだ。なんらかの目的で人工的な手を加えて、新しい景色を作っている。たぶん多くの人が不思議に思うだろう。見た人が納得できるように近場に簡単な説明板があればいい。

大和川河川事務所でもらった資料によれば、浄水のための工夫で、「瀬と淵方式」という。人工的に水しぶきが上がる瀬を作り、酸素を取り込み、微生物の働きを活発にして汚れを食べてもらう。淵の方は、これも人工的に淀みを作り、有機物のゴミを沈殿させるものらしい。

ついで出てきたのは、堤防脇に広場を囲む柵があり、「車両交換場所」という看板。これもみなれない表示であるが、ここにはちゃんと説明がある。それによると、洪水時に水防活動を効率よく速やかにできるように場所を確保してあるもので、資材運搬車両の待機や方向転換に使うそうだ。

見たところ、ふつうの空き地で、とても大事なものがあるとは見えないが、いったん緊急事態が発生すると、前線基地になるのであろう。監視カメラも二基設置してある。さらに「側帯」という看板もあった。堤防脇に土嚢などを用意してあるところだ。これもふだん聞きなれない言葉である。

治水というのは、一朝一夕には出来ない。長い経験の積み重ねの成果であることがわかる。ひとたび川が荒れると、その治水に大変な資材、労力、費用が必要なのであろうが、こうした対策施設が川沿いに用意されているとは知らなかった。ただ、水防倉庫というのが堤防のところどころにあることは、かつて、ある大きな事件の被害者が押し込められたことがあり、妙に印象に残っている。

左岸に寺川、飛鳥川、曽我川が相次いで流入する。ちょっと先の右岸には富雄川が合流する。平野を流れる大和川が、たくさんの支川の水を集めていることが一目瞭然である。   右下に安堵町環境美化センターを堤防から見ながら、西名阪自動車道の高架下を潜る。川の中に立つ二つの橋脚の周りが、四段積みされた土嚢に囲まれて、完全に水が抜かれている。川の流れは左岸側に狭く押しやられている。車両が乗り入れられる大がかりな工事現場である。

「なんの工事でしょう。川底をさらえ橋脚がむき出しになっている」

「さあ、ね」

首をかしげていたら、工事概要の書いた看板があった。なんと耐震補強工事だった。そういえば、二つの橋脚の壁はぐるりと新しいグレー色のもので巻かれている。高架道路と橋を支える柱を強化しているのである。

  「やるもんですね」            「費用も手間も膨大なものですね」

「どうやって地震に弱いとわかったのかな」

Yさんとそんな門外漢丸出しの会話を交わしながら、御幸橋を左岸に渡る。逆方向に法隆寺がある。橋の歩道には広いサイクリングロードが区分されている。川を渡る風に吹かれて、学童と父親が自転車で走ってきた。左岸の橋のたもとから河川敷に降りる。対岸が遠くなった。


悪臭につつまれる川辺

広々とした河川敷はよく見ると、きれいに掃除され、砂利が新しく、雑草も刈った跡がある。要するに最近、整地されたのである。その疑問はすぐに小さな説明の紙片で分かった。近々、ここで水防演習が行われるのである。

TVの映像なんかを通じてしか知らないが、関係者が集散を繰り返し、堤防決壊や土止め作業を想定したり、中洲の取り残された人々の救出活動などを訓練するのだろう。ご苦労さんに尽きる。街中の小さな川が一瞬の豪雨で、激流になり、人命を奪ったり、冠水被害を出すことはしばしばある。

安堵町から河合町に入っている。御幸大橋の下で一服する。乾いた五月の風が吹きぬけて、気持ちがいい。ここで休憩したのは正解だった。すぐあとの堤防はコンクリ壁と中段に歩道があるのだが、一転して最悪の環境になった。

河川敷寄りの岸辺には、砂岩を金網に包んだ平べったい袋状のものが、いくつも敷かれてある。数メートル四方の細工ものである。川幅の三分の一までせり出して、百メートルくらい岸辺に続いている。水かさが少ないので、金網のものは水に沈んでいるところや水位よりも上に出ているところもある。

これはなんなのか。近づくと、たちまち物凄い悪臭が漂ってきた。堤防から土管が突き出していて、その金網の細工ものの方に排水されている。排水は茶褐色に汚れている。この一帯がなんとも筆舌に尽くしがたい、ムッと鼻につく臭気。吐き気を催すほど醜悪な匂い。目も痛い。ヘドロにつきものの悪臭と汚わい感である。よく整備された護岸脇ながら、こんな悪臭がきつい岸辺と初めて出会う。

「生活排水を未処理のまま流しているのでしょうかね」

それが浄化できるかどうか、この蛇籠みたいな細工で試しているのでしょうか」

「どういう仕組みなのかな。まるでトイレの水もそのままような臭さだな」

「トイレの水まで流すかな」

生ものが腐敗したような不快で、汚れた水。このままの状態で大和川に注入されているのか。そう思うと、ぞっとする。いくら下流で大量の川水に希釈されたとしても、この水を見てしまったら、絶対に川水に手をつけたくないし、水遊びなんかとんでもないことだと思う。

資料から推測すると、「直接接触酸化方式」というのだろうか。おそらく水質汚濁に関連した浄化装置の一つの試みであろうが、これほど悪臭の現場を生み出しているのだから、なにを目的に、どのような効果を狙ってやっているのか、やはり説明板が欲しいところだった。

堤防を越えて、泉台の住宅地を抜ける。中年の夫婦らしい男女が自転車で近づいてきたので、男性の方に川の名前を尋ねてみたら、言下に「大和川だッ」と言った。その口調には、お前らはそんなことも知らないのか、と言った気配

が感じられた。なるほど、河合町あたりまで来ると、地元の人にはもう初瀬川か大和川かの迷いはなくて、はっきりと大和川だという認識があるのだと知る。


めずらしい沈下橋

佐味田川との合流点を過ぎて、まもなく沈下橋に出た。大城橋という。「潜水橋なので出水時は注意」と立て看板がある。沈下橋は欄干など飾りものは一切ない。増水時は水没して、流れの邪魔をしないのだ。車一台が通行可能な狭い舗装橋である。沈下橋といえば、四国・四万十川の清流にかかる長い橋は、絵葉書をみるような風情があって有名だが、大和川にも沈下橋があるとは知らなかった。

眺めていると、自転車の男性が橋の真ん中をゆうゆうと渡って行った。軽四輪が対岸の堤防からするすると降りてきて、危なげなく渡っってきた。こちらからも普通乗用車が越えて行った。対向した場合は、一方が対岸で待機するわけだ。

橋のたもとは珍しく砂州があって、若い男女が駆けていた。このあたりの堤防から北方面を望むと、信貴山からのスカイラインの先に生駒山の山頂が近づいている。山頂に電波塔が林立するから、すぐにわかる。Yさんが毎朝のように駆け上っている山がある。                                                  

手前にJR大和路線の鉄橋が架かる。歩くにつれて踏切のチンチンが鳴り始めた。やがて四両編成の白い電車が音を立てて赤い鉄橋を渡り去った。川のある風景はどこか郷愁を誘う。

蛇行する大和川。今度は右手にJR和歌山線の電車を見る。三郷町のビルや住宅地が目立つ中心部に大和川は流れ込んで行く。対岸に大きな樋門がある。生駒山地の東を生駒市、平群町、斑鳩の里を流れてきた龍田川の合流点である。古来から歌句に取り上げられる著名な川である。

昭和橋の直前から水辺に下りる階段があり、そのまま芝生がきれいな「ふれあい公園」になる。ジーンズの幼児と父親がなにか草を摘んでいる。幼児と遊ぶ若い父親やボールを蹴る子どもたち。おわんの船に乗る一寸法師や泥船に乗ったタヌキなどのコンクリ製のオブジェがある。若草橋近くで、お昼にする。木株を模したイスが都合がいい。暑いくらいの日差しを受けて、アウトドアでおにぎりを食べるのは、いい気分だ。川面は背丈の高い葦にさえぎられて見えない。

「大和川水系流域図」を芝の上に広げて、歩いてきた川筋を一覧する。ここにきて距離標石を見なくなったが、河口まであと三十`を切ったはずである。昭和橋から国道25号(伊勢街道)に合流する出合橋まで相当長く川畔が公園化されている。このような大きな親水公園は初めての登場である。

 若い男女や家族連れのグループがテントを張り、バーベキューをやっている。肉を焼く、おいしそうな匂いが漂う。ところが、Yさんはベジタリアンだから、焼肉の匂いは顔をそむけるのだ。

「魚はどうですか」と家内。

「魚は大丈夫です」とYさん。

肉が焼ける間、手の空いた連中はバドミントンやバレボールに興じている。自転車で走りまわる子どもたち。追いかける父親、、、。河川敷が開放され、お手軽で和やかな憩いの場になっている。

私たちも車の心配をせずに芝生の上を歩くのは楽しい。秋の七草を描いたタイル画の石柱が並ぶ。対岸の信貴山の斜面は、びっしり住宅密集地になっている。大阪のベッドタウン化が完成しているような景観である。あの高い所では、どこの水を水道水にしているのかなと思う。

国道25号の出合橋で左岸からの葛下川と合流した。見るからに汚れた水が注入されている。奈良県と大阪府の府県境は近いので、奈良側で合流する支川はこれが最後かと思ったら、まだ残っていた。地図によると、右岸の信貴山側の龍田大社の方から実盛川が流入している。

府県境の亀瀬渓谷

これまで初瀬川や大和川に注ぐ川の名をいくつか挙げてきたが、それはみんな一次支川ばかりで、実際には一次支川に注ぐ二次、三次の支川がある。幹に枝葉があり、さらに小枝が伸びている。そうして水流の広がりを奈良盆地のなかに想像する。

「亀瀬渓谷まですぐだが、ここからは川のほとりを歩けない。」とYさん。大和川は川幅を広げたうえ、水面がぐっと低くなる。堤防がなく、直接国道と接している。龍田大橋までは川面を眺められるが、大きなマンションが建つあたりからいったん川筋と離れる。仕方なく私たちは国道のガードレール沿いに対向からの車を警戒しながら歩く。

龍田大社といい、龍田大橋といい、この地の龍田という地名は、百人一首に出てくる龍田川を指すという説があるらしく、たとえば、古今集の在原業平朝臣の

ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは

この龍田川は、いまの三郷町から亀の瀬あたりの大和川を指すのだという。いわゆる斑鳩の里の龍田川しか思い浮かばなかったものには、意外な感じがする。さっき樋門があった龍田川の合流点をふくめて一本の川という認識である。


だとすれば、龍田川との合流点までの本川は、どういう名前になるかな。初瀬川という名前だったのかな。  

その名も「亀の瀬橋」に着く。いよいよ亀の瀬地すべり防止地域を通る。川幅がしだいに狭くなる。川岸には大きな樹木が育ち、木の枝にゴミがひっかっている。あの枝の高さまで水位が増すことがあるのだろう。

木々の合間に水面が見える。岩も多い。その一つ一つの岩に川鵜が一羽ずつとまって、五羽もいる。釣り人に嫌われていた川鵜が集団せこんなところにいる。みんな川下の水面をじっと見詰めて、黒い銅像のようだ。魚を待ち伏せしているのだろう。

少ない水流なのに、白く波立って流れが速くなっているところもある。亀瀬岩というのは川床から水面の露出している二つの岩を亀の背に見立てたものだろう。亀瀬岩とは別に川の中央部までせりだした大きな岩が鎮座しているところもある。

亀瀬渓谷は、生駒・信貴山系が途切れて凹み、再び盛り上がって葛城・金剛山系の山並みになる狭間である。幅百メートルもないような狭い所に国道25号、大和川、JR大和路線が肩を寄せ合うように並行している。

ここまで川筋を歩いてきて、一番の深い渓谷であることがわかる。狭隘な難所である。ボトルネックになっている。資料によれば、昭和七年には関西本線のトンネルが崩壊するような土砂崩れがあった。過去にも地滑りが絶えない。

ここで大規模な地滑りや地盤崩壊が起こり、川がせき止められれば、大阪側に水が流れない。大和川の水は行き場を失う。行き場のない水は、どうなるか、奈良盆地にあふれかえる。水がこない大阪平野は干上がるのか。いろいろ難題の可能性を秘めた要の地点である。

それにしても、遣隋使小野妹子のころ、船で桜井市金屋の仏教伝来地あたりの上流に進んだというが、ここを船で越すのはムリだったではないか。現状を見た限りでは、そうとしか思えない。いまの柏原市峠地区あたりから山越えして、いまの三郷町藤井地区の川畔に下り、再び船に乗ったのではないか。この間の距離は、数百メートル。そう想定するのが、自然のような気がする。

龍田山見つつ越えきし桜花 散りか過ぎなむ我が帰ると

大伴家持

龍田川があれば、龍田山があってもいいかもしれない。桜の花を見ながら龍田山を越えて、、、と家持は歌っているが、この山越えのことは「龍田越え」とされて、いまもハイキングコースがあるという。

もっとも、不思議なことに龍田山という名の山は、いまの地図上にはない。どの山を指すのだろうか。低山逍遥好きのYさんは、南側にある明神山(二七四メートル)に登ったことがあるという。

江戸時代になる前の天下分け目、関が原の戦いがあった1600年、豊臣秀吉の重臣で、平群郡の大名、片桐且元が亀の瀬の岩盤を爆破するなどして、川の開削工事を行い、年貢米を船で大坂に運ぶ水上輸送を開発した。これを機に大和川の水運がさかんになったとされる。そういう史実からしても遣隋使が往来するころの金屋と大阪湾を繋ぐ水運はムリだったのではないか、と思ったりする。

資料によると、江戸時代は大阪側からここまでは、むしろを帆にした大型の剣先船。亀の瀬で喫水の浅い魚簗船(やなぶね)に乗り換えた。魚簗船はいまの奈良県浄化センター手前の板屋ケ瀬橋から本川をはずれ、佐保川の支川までさかのぼった。大和の農作物を大阪へ、大阪から魚や肥料が大和に運ばれたという。人と物の交流に執念を燃やした人間の智恵の物語であると思うが、現状の水面を眺めていては、そのような物資輸送の活況ぶりは、とても想像しにくい。

大阪府柏原市に入った。赤い塗りの弁天橋がかかる。対岸の急な斜面に河内堅上駅が見える。このあたりはぶどうの産地である。国道寄りの山の斜面はコンクリ壁がベタ張りのところもある。往来の激しい車の排気や騒音に追われるように歩く。国分寺大橋から下流を眺めると、うねるような蛇行が始まっている。

川筋の沿う道が見つからず、国道を行く。沿線はジェイテクト工場が長く続く。車の駆動部分、ステアリングなどのメーカーである。工場の壁が途切れたところの細い道を川筋を探して右折する。川は小高い山を抱え込んで、大きなS字状を描いているので、なかなか近寄れない。

国分神社で、あとから来た自転車の女性が自転車を止めて、参道入口の小さな社にお賽銭を上げた。両手を合わしている。近づいてゆく私たちは見るともなく、見てしまう。

「なにか願をかけているのかな」

「家内安全、病気平癒か。慣れた行動だったから、なんでしょうね」

「年恰好からいえば、子どもの合格祈願かな」

「いまはちょっと時期はずれだ」

雑談を交わしながら、坂道を歩く。あの神社の近くには四世紀中ごろのものといわれる前方後円墳の松岳山(まつおかやま)古墳がある。坂を下りだすと、前方に大和川が現れてきた。川幅をぐっと広げている。こころなしか水量も増えた。いよいよ大川らしくなった。ここらあたりまでは船便があったといわれれば、十分に納得できる。

再び25号線に合流する国豊橋まで、川の左岸は金網でびっしり封鎖されていて、水辺に寄れない。整地された白い地所が広がる。「スーパー堤防整備区間」と流域図にある。

資料によれば、スーパー堤防というのは、「高規格堤防」という硬い名前の愛称で、堤防の幅を二、三百メートルと大幅に拡幅する。これだと大きな洪水があっても、決壊することがない、仮にあふれた水の流れもゆるやかになる、広げた地所には民家、ビル、公園など開発できる。治水、防災や都市開発に役立つのだとある。関西では淀川や大和川筋は、ほとんどスーパー堤防化の対象になっているようだ。

素人目にも堤防脇の二、三百メートル地域の用地収用、立ち退き、補償問題は大変な課題であろうと思う。ここでも金網で覆われた地域のなかにポツンと二軒の建物が残されている。そこに通じる道の左右が金網で仕切られている。道の入口に土地収用法にかかわる看板が立っている。二軒は整備計画に反対して、収用を拒んでいるのであろうか。


スーパー堤防計画が、この地域の人々に十分な理解や協力を求めたうえで始まったのかどうか事情がわからないが、計画の実施側は慎重に手を尽くすべきであろう。最終的に大臣のお詫びでもって収束した成田闘争のような例もあることを思い出す。                  

国豊橋の下は賑わっていた。いくつものバーベキュー・パーティとはしゃぐ子どもたち。緑の芝生のうえで、みんな生き生きと楽しんでいる。河川敷が住民の暮らしと密接な関係にある。

そんな牧歌的な楽しい風景は、豊国橋を渡り、右岸の堤防から河川敷の降りても変わらない。水道橋の対岸まで翻るたくさんの鯉のぼり、芝に寝転ぶ家族たち、写生をする幼女、サイクリングの親子。キャスティングする魚釣り人。ここで初めて川べりに素足で入り、網で小魚かなにかを追っている親と子を見た。葦の生える水辺に浅瀬がある。

澄んだ青空と目にやさしい新緑。いかにも開放された健康的な安らぎの場所が続く。川がもたらす副次的な効用である。十全な治水対策とあわせて、沿岸住民へのこうしたサービスの場を広げれば、川に親しみ、重要性を理解する住民が増えるだろう。利水の一環ともいえる。

この堤防でしばらくぶりに「距離標」石を見つけた。「河口から182`」。歩いたものだ。「36`」地点からでも十八`歩いたことになる。

向かいの左岸に大きく合流してくる石川と出会った。河内長野市の滝畑ダム方面から富田林、羽曳野、藤井寺三市を抜けてくる支川としては、最大の川だ。T字型に二つの大川が出会い、空が広くなった感じである。

「このあたりで、江戸時代の大和川付け替え工事が始まった記念碑があるはずなんですがね」

「大和川の流れを方向転換させた工事ですね」

原市役所を横目に安堂まできて堤防を降りる。国道25号と170号の三差路わきの狭い空き地が大和川の築留治水記念公園だった。記念碑がある。道脇に「大和川付替工事三百年記念碑 未来に伝える河川環境」(平成1610月建立)の石柱。ほかに歌碑や付け替え前の大和川である河川、玉串(櫛)川、久宝寺川、恩智川、菱江川などの絵地図の看板がある。いくつかの川は河内平野を西北か北に進み、上町台地にある大阪城の東側の流れて淀川につながっている。

当時の川筋をいまの堺・住吉の方向に進路変更させた「付け替え工事」の立役者、中甚兵衛の銅像がある。等身大で礎石の上に立つ。この銅像は甚兵衛生誕三百五十年記念(1989年)に建てられたらしい。中甚兵衛の挙げた右手は大和川の方向を指している。   

なぜ付け替えたのか、どんな苦労があったのか。現在の大和川のありようを決めた功労者を顕彰する石碑の全文をここに掲載しよう。   

「大和川付けかえと中甚兵衛」

「河内平野を幾筋もに分かれて淀川に注いでいた大和川が、今の姿に付けかえられたのは、元禄が宝永と改元されて1704年のことです。工事は、わずか8ケ月で完成しました。洪水に悩む地域のお百姓の訴えが実を結んだものですが、最初の江戸幕府への願い出から付けかえの実現までには、50年近くの月日を要しました。

その間にも幕府は何度か付けかえの検分をしました。そのたびに新しく川筋となる村々から強い反対にあい計画は中止されました。しかし、3年連続して河内平野が全て泥海と化すような大洪水もあって、幕府は対策に本腰を入れ専門家を派遣、工事を行いました。この工事で、淀川河口の水はけはよくなったものの、大和川筋は一向に改善されず、川床には土砂が堆積して田畑よりも3メートルも高い天井川になってしまいました。

しかも、幕府は付けかえ不要の方針を固めたため、依然洪水に悩む人々は、付けかえの要望が出来なくなり治水を望む運動の規模も、どんどん縮小してしましました。しかし、多くの文書や絵図を作成して状況の改善と新田開発の有効さを訴え続けた根気と情熱が、幕府の方針を変更させたのです。

この付けかえ促進派で終止(始)運動の中心にあったのが、代々の今村村(現在の東大阪市今米)の庄屋に生まれた中甚兵衛で、同志の芝村・曽根三郎右衛門や吉田村・山中治朗兵衛の引退や死にもめげず、最後までたった一人で何度も奉行所に出向き工事計画を具申しました。そして、ついに力量を認められ実際の工事にも御用を仰せつかまりました。また、その子九兵衛もそれを手伝ったと記録されています。

甚兵衛、付けかえ時66歳。翌年剃髪して乗久を名乗り、享保1592歳の天寿を全うして亡くなりました。

お墓は京都東山西大谷に、生地の旧春日神社跡には従五位記念碑が、またその北100メートルには生家の屋敷跡の石垣が残っています」

誰かまとめたのかわからないが、甚兵衛の苦労がいかに大変であったか、簡潔にまとめてある。徳川幕府五代将軍、綱吉の決定である。幕府成立から約百年、爛熟の元禄期をよそに度重なる水害に困窮する農民を救済しようと生涯を捧げた庄屋・甚兵衛。封建制度下で民意を実現させるのは、たやすいことではないだろう。りっぱな救世の人物がいたものである。

他の資料などを読んでわかることは、河内平野を流れる川は、平坦部にあるため淀川と合流しても水流に勢いがなく逆流した。山からの砂が堆積して川底が田畑よりも高い天井川になった。このため、しょっちゅう洪水が発生し、低地の田畑は水浸し、住まいも冠水。米などの農作物が収穫できないどころか、時には餓死者もでるほど貧窮した。

こうした慢性的な洪水被害が続くと、農民の死活の苦境をさまよう。一方で、幕府もさすがに貧農からの年貢の取立てがむずかしくなる。およそ半世紀もたって甚兵衛らの訴えを認めたのは、おそらくこの点が大きいのではないか。今ふうに言えば、行政負担は大きいけれど、納税ゼロではなにもやってられないからだ。

当初三年かかると見られた工事計画は、わずか八カ月で完成したとある。驚異である。重機も車両もないころの、くわやつるはしでの人海作戦による大土木工事。改修にかけた意気込みが伝わってくる。

暴れ川をなだめるために堤防を高く補強する策もあるし、流れをスムーズにするため一部地区の直線化や浚渫して掘り下げるという手もあるが、甚兵衛が打ち出し対策は、川そのものの付け替えという着想だから、凄い。これこそ抜本的解決にちがいない。

工事は大阪湾側からスタート、川底を掘るよりも田畑をそのままに両サイドに堤防を築く方式で行われた。一部地域の高台では掘削もした。安堂のあたりで元の大和川と出合い、トンネルを貫通さすように堤防を突き崩して接続した。記録によれば、この地点を築留といい、築留から「河口まで14・3キロメートル、川幅180メートル、堤防高5メートル」という工事だった。甚兵衛の銅像の背後の一段低いところに築留を示す樋のようなものが残っている。

それにしても、いまの高い堤防は当時の遺産かもしれないが、安堂付近の景観に大規模工事をしのぶものは見られない。三百年の歳月と地域の変貌に思いを寄せるしかない。流域の住民としては、中甚兵衛の偉大な名はもっと知られていいと思う。

ただ、暴れ川の流路がなくなった側は、その後、洪水が減り、乾田を生かして木綿栽培が盛んになり、河内木綿といわれる綿業が起こる、、、とメリットが大きく、めでたしめでたしとなるが、新川を押し付けられた大阪湾までの農村側は、地域のまとまりを分断されるは、伝来の田畑を川底にされて職を失うは、一家離散、貧窮のあげく逃散と散々な目にあったのは想像に難くない。

国家的な政策なり、社会防衛なりの施策の結果が、利害関係者のすべてを潤すということはむずかしい。その点から中甚兵衛を必ずしも救世の人ではなくて、まさに利己的な開発事業家と評価する向きもいるようだ。これは現代にも通じる懸案につきものの問題である。

さて、広々とした河川敷、石川との合流風景を眺めながら、新大和橋まで歩き、近鉄道明寺線柏原南口駅でYさんと別れ、七時間半かかった今回の歩きは終わった。初夏の日射しは思いのほかきつく、腕は焼けてひりひりしている。



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