源流から河口を訪ねて(2)                                                                          

第二回   2008年4月19日(くもり)

(近鉄大阪線長谷寺駅→金屋河川敷公園→田原本町→長柄運動公園
  →はせがわ展望公園→唐古・鍵遺跡楼閣→天理市→川西町・近鉄樫
原線結崎駅 歩行距離約20`)                      
     

堂々と川幅を広げて

 八重桜が咲く朝、私たち三人は近鉄長谷寺駅に降り立った。                   

国道165(旧伊勢街道)を渡り、初瀬川にかかる朱塗りの参急橋に立つ。遠景にかすんだ天神山が見える。川の水量が前回よりずっと多い。白茶けた水の流れが早い。昨日まで二日続きの雨だったので、初瀬ダムの放水量が増えているのかもしれない。           

あいにくの曇り空だが、新緑が美しい。ちょうどこの日から長谷寺の牡丹まつりが開かれる。たくさんある有料駐車場にとっても稼ぎ時なのだろう。掃除をしている人の姿がかいがいしい。                                  

長谷寺方面に背を向けて商店街を抜ける。165号を再び横切る。そのままでは川筋との距離があるので、しばらく国道を歩く。最初に見つけた橋は、国道との三差路の先で、その名も初瀬橋。コンクリの立派な橋である。川幅はおよそ二十五メートルくらいに広がる。初瀬ダムの手前の広がりを除いては、いままででもっとも川幅が広い。白濁した水流が勢いよく堰を越えている。両岸に枯れた葦が密生し、左岸に小さな畑さえある。       

[うーん、川らしくなりましたね」
 「もう小川とは言えませんな」

源流地の溝のような流れを見てきているから、川がしだいに大きく成長するさまに感心する。子どもの成長をみるような感じである。小学校の校舎を過ぎたあたりで細い白河川が南下して初瀬川に合流する。初瀬川に支川が合流し、また民家からの生活用水が排出されて合流する様子がわかる。        

ここらあたりで旧伊勢街道は国道のさらに裏通りになる。古い民家、路地のような狭い街道の名残り道だ。ツバメが早くも軒先で巣作りし、やかましくさえずる。菜の花が咲く。「薄桃色の花はなんの花かな」と家内。路地裏に春がある。

黒崎地区では集落の裏に川の流れる音を聴く。人通りはないが、古い民家と民家の隙間のような空き地の先に小さい橋がかかり、川の様子を見ることが出来る。一人が歩ける程度の狭い橋の欄干に「りゅうたに」橋とあり、さらにちゃんと「大和川」の文字が見える。

川畔でイチゴのハウスを手入れしている中年の女性がいた。            
 「この川はなんと呼んでいるのですか」
 「ええと、初瀬川です」           
 「地元で大和川とは言わないのですか」
 「先は大和川になりよるけどな、ここでは言わんよ」           
と言って笑っている。

こんな質問を、このあとも川沿いで地元の人に遠慮なくぶつけてみると、おいおい判ってくるのだが、桜井市、田原本町、天理市、川西町など下流域の市町では、地元の人たちは正式には大和川であることを知っているけれど、日常的には初瀬川という呼び名に馴れ親しんでいる。

万葉のころは、「泊瀬川」とか「初瀬河」とかと表記して「はつせがわ」または「はせがわ」と読んでいたらしい。この川のある暮らしを詠んだ歌はたくさんある。インタネットで検索すれば、たちどころにいくつか提示される。次の一首では、万葉仮名は「泊」の字を用いている。

泊瀬川白木綿花に落ちたぎつ瀬をさやけみと見に来し

(万葉集七巻 作者不詳)

初瀬川と国道のある狭い平地を挟むのは、低い山である。北側は外鎌山(二九二メートル)とその裾に広がる朝倉地区の住宅街。北側は「記紀」にも記された最古の神社、大神神社のご神体とされる三輪山(四六七メートル)である。どちらの山もかつてハイキングで登ったことを思い出す。山好きのYさんも同様である。

国道筋にそうめんの会社がある。この地は三輪そうめんで知られる産地。いい小麦と三輪山からの清水、初瀬川の水を取り込んだ水車が製粉して、、、、そうめん製造にはいい条件に恵まれていたらしいが、それを偲ぶ水車は一つも残っていないそうだ。

伊勢街道の軒先にはチューリップが咲き、庭にピンクのアメリカミズキ、狭い空き地にエンドウの白い花が点々、遠く黄色のカラシナの花の群生。春らんまんな感じ。やや高い斜面を近鉄大阪線の電車が緑の景色のなかを走りぬける。初瀬川の鉄橋を勢いよく音を立てて渡る。堂々した大河を思わす風景となった。

いったん川筋から遠く離れて199号線に移り、中和幹線高架道路工事の中断した橋脚なんかを見つつ歩く。右手の山側に山辺の道のコース案内があるあたりで、また初瀬川べりに出た。車の心配がない堤防歩きがいい。もうびっしり低い緑の草に覆われていて足にもやさしい。

このあたりから、前方は広々とした空の下になる。奈良盆地の平坦な広がりを大和の国中(くんなか)というが、おそらくこういうイメージなのかと思う。

仏教伝来の中心地へ

広い川幅になった金屋河川敷公園に着いた。きれいな「うまいでばし」(馬井手橋)を挟んで、河川敷がきれいに整備されている。いわゆる親水公園である。        
 大きな御影石の碑があり、「仏教傳来之地」と重厚に刻まれている。そばに説明板。ここでは書き出しの文字は「泊瀬川」とある。日本書紀によると、仏教は百済の聖明王から第二十九代の欽明天皇(552年)に釈迦仏の金銅像と経論を送られるかたちで公伝したとされている。欽明帝は、この碑の東南三百メートルに磯城島金刺宮(しきしまのかなさしみや)の都を開いていたという。石碑の左横にも小さな碑。

「夕さらずかわず鳴くなる三輪川の清き瀬の音を聞かくし良しも」(作者未詳)樋口清之書とある。樋口さんは桜井出身で考古学の大御所だった人物である。三輪川とあるのは、ここから少し下った初瀬川に注ぐ支川のことであろう。

対岸の河川敷に階段護岸、その背後の土手に大きなタイル壁画で、かつての隋との交流図が描いてある。この地は遣隋使、小野妹子が隋の使者、裴世清(はいせいせい)を連れて帰国した(608年)ところで、推古天皇は飾り馬75頭も並べて歓迎したと伝えられている。        

ご当地は、初瀬街道、山の辺の道、盤余(いわれ)の道、竹之内街道などが交差するうえ、大阪湾からの大和川伝いに船が到着した最終の地点で、陸と水との交通の要衝として、最古の交易市が開かれたとされる。市の名は「海石榴市」(つばいち)。海石榴とは「椿」のことで、椿は染料加工に使われたらしい。万葉集にも詠われている。

海石榴市の八十の街に立ち平し結びし紐を解かまく惜しも

のち平安時代の源氏物語にも、長谷寺参拝に上がる途中の金屋の宿で玉鬘が夕顔の侍女、右近と再会の場面を描いているそうだ。

初瀬川はやくのことは知らねども 今日の逢う瀬に身さへながれぬ

いま、ここを歩いてみても、どうしてこのような低山と川がある狭隘な平野の隅っこが往時の人のお気に入りの場所になったのか、ピンとこない。ここが古代大和朝廷の中心地に発展したのは、どうしてだろうと思う。

川と山がある場所なら日本国中いたるところが、そうした環境に恵まれている。往時の人が、どの点を取ってこの地を暮らしよいところ、外敵から身を守るのにいいところと考えたのか、想像するほかはない。今も昔も暮らしの基本は水の確保、食料生産、内外の環境からの安心安全だろうが。

初瀬川の存在は、飲み水や灌漑や水利などに大きな利便性をもたらしただろうが、大陸との交流には適地であったのかどうか。いま見るような川のかたちで大阪湾からの船の往来が開けていたとは、ちょっと信じがたい。いまは跡形もないが、なにか特別な船、川底をえぐった水脈、陸からの綱引きなど支援があったのかもしれない。水の流れに抗して上流へ、上流へと目指すエネルギーは、なんだったのか。

そんな想像をめぐらしながら、岸辺を少し歩き出すと、山の辺の道歩きに繰り出したリュック姿の人たちと出会う。この道はとても人気があるハイキングコースである。河川敷にロバのようなかわいい彩色した馬のオブジェ数個並ぶ。小野妹子の帰国を歓迎した馬にちなんだものであろうか。

これまでずっと右岸歩きだったが、大向持橋を渡り、左岸を歩く。高架道路の出入り口造りが進んでいる。初瀬川岸の景観がいずれ一変するだろう。

犬を連れて歩く中年男性に例によって川の呼び名を尋ねたら、ほんまは大和川なんやろが、まだこのへんでは初瀬川と言ってます、とのこと。さきほどの馬井手橋にも大和川と表示してあったが、やはり川域の人の気持ちは初瀬川に愛着があるみたいだ。

大神神社の巨大な鳥居をはるか右に見ながら、やがてjR桜井線を越える。単線の線路を越すと対岸に「一級河川大和川 奈良県」と初めて奈良県の管理下にあることを表示した駅のホームに在るような大きな看板を見た。

余談だが、金屋河川敷公園にかかる「うまいではし」では、大和川は「やまとかわ」と濁らずに書かれていた。濁るのか、濁らないのか。声に出して言うときは、困る。

草つきの堤防を歩く。街のなかに入ったせいか、ゴミが増えてきた。こわれた自転車、淀みに発泡スチロール、ペットボトル、タイヤ、板切れなどが浮かぶ。同時に警察と土木事務所が立てたゴミの不法投棄禁止を訴える警告板も目だってきた。懲役五年以下もしくは1000万円以下の罰金に処せられるとある。

ゴミの不法投棄目立つ

次々と生活排水の土管が土手に口を開けている。目に見えぬ水質汚濁、目に見えるゴミ。大和川浄化の標的が現われてきた。                                  

Yさんが、くもり空の左手の遠くに大和三山(畝傍山、耳成山、天の香具山)が一望されるという。「カメラに三山が一度に収まる場所はあんまりない」とカメラを向けている。なるほど、金剛・葛城・和泉山系の尾根筋から望見したが、平坦部からの風景は得がたいかもしれない。

地図では新屋敷地区の堤防脇に四等三角点の表示があるので捜した。杭は草むらにあったが、標石は見つからなかった。ここは新屋敷692メートル地点である。  

「しんみわおおはし」からは、車一台が通行可能な舗装された堤防となり、歩きやすくなった。川幅は安定的に約二十五メートルくらい。左右岸ともに雑草で土手が覆われている。水流はゆっくりと、水かさはだいぶ増えてきた。薄茶色に濁った水である。いずれも雨の影響だろう。

堤防に八重桜が満開のところがあった。私たちは草むらにシートを敷いて、おにぎりを食べ、カップ麺を食べた。

「もうこのあたりには魚がいるのかな」                      「川の堰が多いから、魚は遡上できないだろうな。魚には棲みにくいかな」        

そんな雑談を交わしていたのに、歩き出すと、なんと堤防の下の水際で釣りをする男性二人が並んでいるのに出会った。小さな組み立て式のイスやアイスボックスに腰かけて竿を出している。いかにも常連という雰囲気。

ここへ来る直前、川幅を横切っていくつものピアノ線のような糸が張ってあるのと見た。一、二メートル間隔である。光線の具合によっては、透けて見えて、張ってあるのかどうかわからないものもある。あれは、なんだろう。第一、両岸に張るのは、むずかしい作業だろうな。川を泳いで渡るか、糸に重しをつけて対岸に投げるか。

魚釣りの男性の背中に声を投げる。
「何が釣れるのですか」        
「フナや」               
 フナが釣れるという。源流から下ってきて川筋で初めての釣り人だ。このあたりではフナがいるのか。
「あっちの川の上を横切る糸みたいなものはなんですか」
「ありゃ、ウよ」
「ウって、川鵜のことですか」
「そうよ、鵜よけよ」

 フナのほかにも魚がいて、川鵜がそれを餌に食べくる。それを避けるためにぴーんと張り詰めた糸を何本も張り巡らして川鵜の飛来を防いでいるのだ。魚サイドからすれば、セーフティネットである。魚釣り愛好者の智恵なのだろう。こうまでして対策を取るからには、魚影は豊かなんだろう。魚釣りは川から得られる恵み、楽しみである。

さっき昼飯をしていたとき、斜め向かいの対岸から川の半分くらいまで鋼矢板を打ち込み、重機が川底に下りていた。土手の崩壊を修復しているようだ。治山治水こそ国の要諦といわれるが、実際にうまく維持管理して、水害防止や有効利用するのは大変なことである。

膨張式の簡易ダム

その有効利用の一例を見た。初めて目にする装置だった。というのは、Yさんが、どうも川の流れが逆になったみたいに見えると言いだした。なるほど、いつの間にか、川面に小さな無数のさざなみが立ち、流れに逆らっている。

「流れが淀んでますね」
「水量も増えた。逆の流れになった感じ」
 そう話していたら、川幅いっぱいに妙な堰を見つけた。紡錘形の膨らんだゴム風船のようなものである。クジラの腹みたいにも見える。堰の役割をしているらしく、水流はゴムの堰を乗り越えて、音を立てて流れ落ちている。すぐ上流に水門調節の突堤があり、堤防にはコンクリの小屋建て。この三点がセットになって、川水利用をしているようだ。

小屋の壁に「ファブリダム、高さ1・9m×河床幅23・6m 空気膨張式 昭和629月」などと記されてある。
「ファブリダムなんて聞いたことがないな」
「ファブリは繊維のことだから布製の堰堤というのかな」
「簡易ダムということでしょうな」

Yさんが民家や田がある側をみると、川水が取り込まれる口があり、水利溝が伸びている。私たちの推論は、これは灌漑用水を効率よく取り込むため、一時的に水かさを増やす簡易ダムであろうということに落ち着いた。

その後、歩いていると、「ラバーダム」という表記もあった。三箇所までは感心して見詰めたが、そのうちどんどん現れたので、数えるのを止した。この簡易ダムが設置されている箇所は流れが大きく右ないし左に蛇行していているところに多かった。


川のそばの小公園に過去に大きな水害をもたらした事跡がランキングで掲示してあった。やはり台風と梅雨前線のときに大きな水害が起きている。台風と梅雨は治水の強敵である
ようだ。                                

別の看板に初瀬川に棲む生き物を挙げている。イシガメ、イモノの水性動物。魚はアブラハヤ、コイ、フナ、ギギ、カワムツ、オイカワ、ヨシノボリ、ドジョウ、ウナギ、タウナギ、ドンコ、それにアユも入れて十二種類もいる。
「アユも本当にいるのかな」
「昔は居たというこではないかな」
清流を好む魚の生息については、なんとなく疑念がわくのは、大和川のイメージが悪いせいだ。

田原本町に入ってから、堤防沿いにたくさんの小公園が出現した。距離的には百メートルも進まないうちに、新たな公園があったりした。説明板には「しきのみち はせがわ展望公園」とあり、きれいなトイレ、ゲートボール場、芝生の中のベンチ、噴水、埴輪の馬など設けてある。幼児を連れた若い母親や大勢のおじさん、おばさんがゲートボールを楽しんでいた。

堤防の路面にも「大和・山の辺探訪物語 水の辺」とイラスト入りのタイルが一定の間隔を置いて埋め込まれてある。公営の施設がこんなにふんだんにある川畔は珍しい。財政が豊かな自治体なのか、きっと河川利用に関しての交付税なんか潤沢なのではないか、などと勝手な憶測をしながら、われわれはゲートボールのある小公園のベンチでコーヒーを沸かして飲んだ。

朝から薄くもりの空のまま。西の方はだいぶ明るくなってきた。歩いているので肌寒さはぜんぜん感じない。川面はゆっくりと漂い、かるがもの可愛いいヒナが十羽以上も泳いでいる。そういえば、対岸のコンクリ土手で大きな亀が何匹も甲羅干しをしていた。セグロセキレイが優美な姿で飛んだ。川面にたくさんの生命が集っているようだ。       

「展望公園とありますが、なにが展望できるのでしょうかね」
 川筋は特別に高みではない。むしろ広がりのある平野のなかを流れている。東の方を見詰めて、Yさんが言う。
「あの山並みかな」

東側の空の下は濃緑の山々のスカイライン。初瀬川がある窪みから南には音羽山、多武峰、龍門岳の稜線。北は三輪山からは竜王山をピークに若草山方面までずっと低山が続く。低山と田んぼ。万葉人が見たに違いない風景のままであろう。

唐古・鍵遺跡しのぶ楼閣

法貴寺地区からYさんの提案で川筋を離れて、備前町にある長柄運動公園内に設置された電子基準点を見に行く。山の愛好者は、山頂によくある三角点に興味を持っている人が多い。一等から四等まであり、測量や位置の表示に使われている。近年ではより詳しい精度や地殻変動を調べる手段として電子基準点を設けられているという。

「淡路島で見たことがある。もう全国で千二百点もあるらしい」         


 Yさんによれば、高さ数メートルの鉄塔だそうだ。よくある四角い石柱ではないそうだ。それは見てみたいと道草したが、長柄運動公園はあいにく改修工事中で柵があって入れなかった。仕方なく、近くの三等三角点、備前51・6メートルを見てから、川筋に引き返す。

じつは横道にそれたころから、川筋に高い塔が立っているのが気になっていた。県立志貴高校のそばの堤防に戻ると、芝生と岩をあしらった公園があり、その真ん中になんと楼閣が立つ。遠めには木製に見えたが、鉄骨だった。

説明板によると、平成三年唐古・鍵遺跡から出土した土器に描かれていた絵を参考に古代の楼閣を復元したものとある。高さ十二・五メートルもある。こんな高層建築物を立てた古代人は、これを何に使ったかといえば、宗教的儀式に使ったと推定されている。

楼閣の三階からの展望は素晴らしい。「はせがわ展望公園」の由来は、ここにあったのだ気づいた。東はさきほどの竜王山の山並み、西は遠くに金剛・葛城・和泉山系、つい近場に唐古・鍵遺跡、南は大和三山、北は若草山方面と奈良盆地のひろがりを目の当たりにできる。                                                             

唐古・鍵遺跡は弥生時代の環濠集落遺跡と考えられており、国の史跡。楼閣風の建物や新潟県・糸魚川筋にしか産出しないヒスイが見つかったことなどから、物資や富の集散した古代都市があったのではないかと推定されている。環濠があるということは、東西を寺川と大和川に挟まれている地の利が、それを支えたのだろうと思う。

楼閣から眼下の初瀬川を見る。川幅は二十五メートルくらい、ゆるやかな流れである。水面は薄茶色に濁っている。

考えてみれば、金屋河川敷公園いらい水辺に降りられる岸辺がない。初瀬川はずっと土手が深い。集落と近いところの堤防には金網の柵がある。土手は所によって雑草に覆われたり、急斜面のコンクリなどで整備されている。人が水に親しむ余地はない。川沿いにたくさんの小公園があるのは、その代わりなのかもしれない。

志貴高校わきを通過して、まもなく初瀬川は、これまでの倍以上の幅に広がる。東側から幅数メートルの川が合流するからだ。地図には布留川とある。川幅は卵を飲んだ蛇の腹のように膨れたあと、すぐに縮小する。左側は田畑が続く。イチゴやホウレンソウを育てている。この二つは奈良産の代表的作物である。スーパーで見かける産地表示に多いと家内が話す。

そんな会話を打ち消すように、ケケケッとけたたましく鳴きながらケリが飛ぶ。ハトより大きめの鳥である。せわしなく囀るヒバリが中空で舞う。牧歌的な府警風景が残る一方、住宅地が増えてきており、従ってというのはどうかと思うが、川にゴミの堆積が目立つようになってきた。雨の翌日なんか上流域から投棄されたゴミを集めてくるから、余計に目立つようだ。

初瀬川の堤防は、舗装路から草ぼうぼうの道に変わり、国道24号と交差した。、川にかかる大きな橋は帰仁橋とあった。川伝いの歩きは今回はここまで。車の往来が多い国道を横断、京奈和道路の高架下を抜けて、磯城郡川西町の近鉄樫原線結崎駅に午後四時すぎ着いた。

七時間二十分の歩きだった。


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